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被災地となった茨城の両親の住む家へ。: いつかきっとドットコム

被災地となった茨城の両親の住む家へ。

2011年03月20日

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あの大地震から9日目にあたる昨日(2011.3.19)、
被災地となった実家のある茨城へ行って来ました。

目的はふたつ。
水をはじめ支援物資を届けることと、
両親を館山の家に連れてくること、でした。

まだ夜が明けきらぬ早朝5時に館山の家を出発。
天気はどんより曇り空。
館山道からアクアライン、首都高を走り、
常磐道を北上するルートです。




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ガソリン満タンで出発したものの、
帰途の渋滞などを想定し、
ガソリン補給のために友部PAに立ち寄ったところ、
東京消防庁の特殊車両がたくさん入ってきました。




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続々と隊員の方たちが降りてきました。

この日同行した甥と、
「多分、福島第一原発に行く人たちだよね?朝礼かな?」
「大変な作業をしに行ってくれるんだね、ありがたいね」
などと話していたものの・・・。


これが、まさか、
福島第一原発へ向かうハイパーレスキュー隊の
命をかけた出陣式だったとは知る由もない私たちでした。




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「どうぞよろしくお願いします」
「くれぐれも気をつけてください」

特殊車両は、私たちの車のすぐ隣りを通過していきました。




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給油できるガソリンの量が3,000円から2,000円へと
変更を告げるポスターが手書きで訂正されているのを見て、
あらためてガソリン不足を痛感させられたり・・・。




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地震発生時から止まったままの電車。




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倒壊した家屋。




北へ向かえば向かうほど、
海岸線に近ければ近いほど、
被災状況が大きくなっていくのを実感しました。


途中、ひたちなか市の姉宅、
日立市の甥の友人宅に寄ったのち、
北茨城市の両親の住む家に着いたのは
館山を出てから7時間半後の12:30でした。


昼食中だった両親の姿は、
いつもと変わらぬように見えたものの、
母の右腕には痛々しい包帯が・・・。
地震の翌日、深夜トイレに目覚めたときに余震があり、
「あっ!」と思った瞬間に布団のカバーに足をとられ、
布団と共にベッドから滑り落ち右手の肘を骨折したとのこと。


地震以降の諸々を考えると高齢の両親には
相当こたえたはず。
休養をかねてしばらく館山に来て
ゆっくりしてはどうかというも、
父は頑として家を離れませんでした。

離れない理由を聞けば、
父の気持ちも分からなくもなく・・・。
結局、母のみを連れて館山に戻ったのは
夜の9時過ぎでした。


そして今日。
母は、ほっとしたのか1日のほとんどを寝て過ごしました。

ずっとウトウトしてたの。
人の話し声が聞こえるって安心するね。

地震発生時、自宅に一人だった母は、
あまりの怖さに絶叫していたそうです。
どれほどの恐怖だったでしょうか。
その怖さを誰かに聞いてほしかったのだと思います。

けれど、家族全員の無事が確認できたあとは、
家業のスタッフの安否や現場の対応や片付けなど。
父はじめ他の家族はてんやわんや状態が続き、
母の話を聞いてくれる相手も、
タイミングも、時間もなかったようでした。

誰が悪いわけでもなく。
まさに天災の真っ只中、ひとりポツンとしている母でした。

とにかく今はゆっくり寝て、食べて、
芯から疲れた心と体を休めてもらえたら。
おしゃべりな私ですが、しばらく聞き役に徹したいと思います。



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